2012年3月31日土曜日

混乱中

何だか知らないけれど ブログのスタイルが変わって
もとにもどらないので アレコレいじってますが
、、、、、どうしよう、、、、


来週いじってみようか。
よい週末を。










写真はUPできるみたい。
えと、絵本のブログの方は更新しました、写真が同じです。
わはは。

2012年3月17日土曜日

インドからの強風。

去年に続いて 仙一の学校で開かれている
親向けのワークショップ、「食事と栄養」に出席中。
去年と違って 今年のは「調理実習」が多いので
食べる楽しみもおまけでついてくる。

去年は けっこうまじめに「栄養」を学んだのだけど
ここ何回かで どういうわけか内容が各国の料理紹介に
なってきてしまった。

そして昨日は「インド料理」。

私の生活区は  一位;ロシア人
        二位;中国系(マレーシア等、含む)
        三位;インド人(宗派はいろいろ。)

という割合の人種構成だ。
いわゆるアメリカ人の白人って殆どいないし
どういうわけか 黒人も少ない。
ラティーノ(南米系)も 上位三国ほどはいない。

そして 昨日は「インド料理」。
彼らのグループが うちの国のを紹介したい!!と
熱望し、それが叶ったのだ。
講師は インド出身のママ数人。

もうすごいんですよ、インドの人って。
いや、いい人たちです。
知り合いになれば、基本的に。

何がすごいかって、、、、、その押しの強さ。
絶対に 自分の意見、主張を曲げない。
そして 大体において 自分の意見は正しい、と言って譲らない。

例えば 昨日の実習中、シアントロ(パクチー)を刻んで鍋に入れるのを
「あたし、まな板なんて使わないの。指とナイフでちゃ、ちゃ、ちゃ、よ。
(親指と人差し指でうまく刻みつつ、鍋にシアントロを投入。)」
「えぇ?それ、難しいよ、技術がないと。」(私)
「できるのよ、誰でも。まな板なんてね、駄目駄目!!
これはみんな出来て然るべき! こうしなくちゃ 時間の無駄よ。」
「そ、そうっすか、、、。」(私)
ええ。反論の余地もございません。

しつこく言うけど 仲良くなれば、いい人だと思う。そう思える。
ただ 日本人の感覚からすると
一体、どうやれば そんなに 自信たっぷりに意見を持てるのか、
相手の話なんて聞いてるようで聞いてない。
これは かなりの訓練がいるぞ、私には。
(ま、仙一はできてるけどねっ。←嫌味。)

、、、、ってここまで書いて 気付いたのだけれど
上位3つの国の人々は
おうおうにして 同じような感じ。
強いのです。なんだか知らないけど。

言いよどんだり、言い回しを考えたりする日本人からは
真似のできない(うーん、敢えてそうはしない、のだけど。)
力強さで生きている。

、、、、、まぁ、 でも 、昨日教わったレシピ、
夕飯で試してみたけど 上出来だった。
まさに 家で本格インド料理ができたわけです。
(家中 スパイスの匂いだらけですがね、、、、。)

何だかんだ言って このワーク・ショップは面白い。

で、次回は 「SUSHI]。(巻き寿司・太巻き)
いつの間にか勝手に決められていて
このワークショップに参加している日本人は私だけなので
どうなることやら。
(しょうがないから 知人の日本人ママを引きずり込む予定。)

納豆巻きでも作ってやろうか。
みんな、気絶するかもね。

2012年3月13日火曜日

虫の知らせ。

去年の震災から一年。
NYでも在米日本人によるいろいろな催しがあった。
私が参加したものはないけれど
ニュースや新聞で目にしては ああ、あれから一年かと
日々思い起こすことが多かった。

ちょうど去年の今頃は自分の体調が悪化し、
何度も病院を訪れ、不安ななか、手術が決まり、
極度の貧血のため 毎日鉄剤の点滴を受けに
マンハッタンまで通っていた頃だ。
震災のニュースを病院でも流していて
スタッフのみんなに声を掛けられ、慰められたりもした。
家に帰れば連絡のつかない義父母の安否を
ひたすらネットで探す、そんな日々だった。

さて その辺のことは去年書いているからいいとして
あのころあった 書かなかったことがある。
私はあまり神秘的なことを
本格的に信じているわけではない。
でも このふたつはあの震災を前に何かを
感じていたような気がする。

まず 父ちゃん。
彼の性格、経歴からして 故郷の同窓会なんかに
出るような人ではない。
それなのに2011年の正月に
「年祝い」といって同級生が集まり、
厄落としを地域の神社で受け、そのあとちょっとしたパーティー
をする行事があった。その案内をもらった時に
「なーんだか 今回は行っておきたいんだよね。」なんて言う。
夏の帰省だけでお金がないのに 正月も日本に帰るのか?!
無理無理無理!!!(←私。)
「昔の同級生が今どうしているか、気になるんだよね。」
、、、、長い付き合いだけど 今までこんなことを言う人ではなかった。
田舎に帰って暮らす、という選択はいままで無かったし。
「一人ででも 帰ろうかなぁ。」(←マジですか?)

もちろん それは現実的に無理だったので
彼はあきらめたのだけど 里心が出るなんて珍しいので
私には不思議な気持ちだけが残ったのだった。

☆ 

それから 仙一。
去年の2月ー3月の日記にもあるように
異常なまでの 日本に帰りたいモードだった仙一。
今でもよく覚えているが 震災数日前、夕方学校から帰ると
「日本に帰りたい。」とポツリ言う。
「うーん 夏に帰るから、それまでガンバレ。」と私。
「なんだか 心配なんだよ、皆のことが。」
そこから 延々と日本に帰りたいと主張し続け、
いますぐは無理、という私に泣いて訴え始めた。
「じゃぁ アメリカの友達ともお別れだよ!いいの!」というと
それは嫌だ!!!!!!!!ぁぁぁぁああああ。
アメリカにも居たいぃぃぃ、、、でも、、、、
うわぁぁぁ、、、ああああ、 !!!
何を言っても聞いてくれない。

最初は 学校で嫌なことがあるのかと思ったのだけど
思い当たることが無い。あれこれ、さり気なく聞いたけど
学校が嫌なわけでは 全く無い。
でも 東京の友達に会いたい、今すぐ会いたい。
日本に帰りたい、今すぐ帰りたい。

最近、忘却力がかなりついた私がこのことを良く覚えているのは
このときほど 仙一がわがままを言って泣いたことが無かったからだ。
その晩、彼は泣いて泣いて 怒ったように寝てしまった。
私は(そうは見せなかったけど)かなり動揺した。
そんなに言うのなら 近い将来、帰国しなくちゃかな、、と。

そして 震災が起こり、私達夫婦は半狂乱で義父母を
心配していたのだけど どういう訳か仙一はすっきりしていた。
不思議に思って あんた、おじいちゃんたちのこと心配じゃないの、と
聞くと 「うん、大丈夫だよ。心配しなくて大丈夫だよ。」と言う。
あまりに取り乱している大人を見せたくなかったので
友人の家で預かってもらったりしていたのだが
日本の惨状を知りながらも あまり 動揺している感じではなかった。

だいぶ経ってから このことを思い出し、
これは虫の知らせだったのではないか、という思いに至った。
その後、仙一の帰りたいモードはぴたりと止み、
グジグジ言うことは全く無くなった。

実は数日前、このことを仙一に聞いてみた。
「そうなんだよ、あの時はね、なんだか知らないけど
胸がドキドキしてさ、 泣きたい気持ちが抑えられなかったんだよ。
よく覚えているよ。たぶんSIX SENSE(第六感)だったんじゃない?」
ああ、そうだったね。
泣きながら胸をさすって ここが痛いんだよって言ってたんだった、、、、。

あれだけの エネルギーが地球で起きたのだから
何らかの影響はあったに違いない。
いまでは そう思っている。

2012年3月3日土曜日

I won't give up.

だいたいやねー、、、、、
(竹村ケンイチ)


冬休みっていって10日も休むことないじゃん。

休みだからって あんなに宿題出すことないじゃん。

そりゃ4月に州一斉テストあるけどよ、

それで一生が決まるわけでもないじゃん。

ないはずじゃん。

ないはずだけど どこの親も大騒ぎ。

ってことは あるはずじゃん?!

いいの、、、別に、、、うちは もともとアウトローだし。

ラフ、で、タフ、で。

ということを 本日の放課後、校庭にて確信。


(それより 仙一の体質改善だ!!!!)