2011年3月29日火曜日

CUPCAKE FOR JAPAN














震災後 あちこちで募金活動・義援金活動が
NYでも活発に行われている。
仙一の学校には 日本人家族が多いので
学校側も 義援金を集めよう、となり
何かと募金を募るときにとる方法、
CUPCAKE BAKE SALEというものを行うことになった。
(学校によってスタイルは全く違う。うちの学校はたいていこの方式。)

子供達に1ドルずつ持たせて
カップケーキを買ってもらい、収益にするというもの。
ハイチの地震の時には 1800ドル($1=100円計算だと18万円)集めたそうだ。

カップケーキは焼ける父兄の持ち寄り。(ボランティア)
今回は日本が被災地だから
日本人家族もケーキを焼いて持ち寄ることに。
でも それだけでは何だから
仙一のクラスメート全員に 和紙で作った小さな鶴を
お礼にあげるように準備をした。
果たして 喜んでもらえるか、微妙だけど。

さて そんな震災のことばかりの続く日々の中、
仙一君が2年ぶりに表彰された。
うれしいニュースである。
冬休みにヒーヒー言いながら仕上げた
サイエンス・プロジェクトが好評で
クラスのなかで、だけど3位。












去年、一度も賞をもらえず、今年も駄目だと
あきらめていたので かなりうれしい様子。
彼のクラスは 特別に選ばれた子達ばかりなので
その中で 成績が良いとか、行いがよい、といって
評価されるのはなかなか難しい。
現にこれまでの 表彰されている子達は
女子ばっかりである。

がんばれ男子!!!

私はクラスメートの男子に 同情せずにいられない。
彼らは 実に単純で アホなのである。
じっとしていない、馬鹿をやる、ゆえにすぐに怒られる。
つくづく可愛いと思う。
でも やっぱり 表彰されるには程遠い男子たち。。。
27人中、男子は9人。
分が悪いよ、、、、、、、。


ふふふ、でも 昨日はうれしそうだったなぁ。
たまにはご褒美が必要ですな。



2011年3月22日火曜日

現地から。

昨夜 父ちゃんが試しに
実家の携帯に電話をしてみたら つながった。
つながってびっくり。

震災後 かけてもかけても繋がらない電話。
むなしさだけが 募っていた。
その後 義母が避難所にある衛星電話を
長い列に並んだ後、ようやく使えて無事を知らせてくれた。
そのときは 詳しいことが聞けずじまいだったから
現地の様子が さっぱりわからなかった。

そんな訳で やっと夕べ長い話ができて
災害発生時の状況を聞くことができた。

義母はその時 外出中で、あわてて自宅に車で戻ったとのこと。
その数十分後、津波が押し寄せ、彼女が居た場所付近は
流されこそはしなかったが 浸水被害にあったそうだ。
よく自宅まで無事にたどり着けたものだ。
別の町では 車で避難の途中、車ごと流されていった人も多かった。
考えただけでも ぞっとする。

義父はその時 自宅にいたので その後は二人で
真っ暗な停電の続く中、世の中で何が起こっているか
全く知らずに4日間を過ごしていたそうだ。

4日が過ぎて 電気がついて TVを観て
隣町が壊滅状態と知り、絶句。
私の実家の 大地震を知って びっくり。
福島の惨状も このときまで知らなかった。

現地では 町の半分が大被害を受け、町の半分が
あまり被害にあわずに住んだ。
彼らは 浸水も無く 家のなかも少しの被害で済んだ。
ある種ラッキーだったと言える。
それでも 断水、停電、外部との連絡が一切取れず、
食料もだんだん尽き さぞかし不安なことだったろう。
(今も 食料は3時間待って僅かの食べ物しか貰えないそうだ。)

避難所の人たちは 避難者リストで安否がわかったりしたが
自宅で過ごしている人たちには 食料もまわらず、
医療も施されない。名前も名簿に載らないので
安否確認がかなり手間取る状況だ。

私たちも 最初は二人とも避難所にいるかと思って
手当たりしだい 探したが見つからない。
もしかすると 買い物等で別々の場所で災害にあって
自宅より遠いところに避難しているのかも、、、と
あちこちの避難所の名簿を探してみた。

そして 居ないとなると えもしれぬ不安が襲ってくる、、、。

それでも 災害後の航空写真が公開され、
自宅を見てみると 小さく車が2台、写っていた。
多分、家にいる!!!
そう確信して連絡を待っていたのだ。

それにしても ニュース、その他でわかってくる惨状を
目にするたびに いいようのない気持ちに襲われる。
結婚して10年、帰省するたびに出かけていったあちこちの
なじみの場所が もう無いのである。
隣町も またその隣町も 釣りに行った海岸も
海水浴場も、もう、原型を留めていない。

しばらく 言葉にならない。

2011年3月20日日曜日

そして1週間。

長らく更新できなかったわけは 他でもない、
日本の大惨事で 右往左往だったからだ。

父ちゃんの実家のある東北の町は
かなりの被害だ。
彼の両親の無事を確認するまで4日かかった。
それも 数十秒の電話で声を聞けただけ、、、。
それ以来 依然として現地と連絡が取れていない。
それでも とにかく無事と言うだけで やっと
一息つけた。

その後 2時間ほど経って
今度は私の実家のある静岡・富士宮が震度6.
幸いこっちとはすぐに連絡が取れて
家族は無事だった。
家の中はめちゃくちゃのようですが。

このダブル・ショックに かなりこたえました。
見渡せば我が家も めちゃくちゃな状態。

今回、たくさんの方から連絡を頂いて
協力してもらったり、励ましてもらったり。
本当にありがとう。

また、こちらの友人家族にもかなり助けてもらいました。
感謝感謝です。
特に 仙一に悲惨なニュースを見せ続けたくなかったので
友人宅に預かってもらって ご飯まで食べさせてもらったり、、、。
実にかたじけない、、、、、。

被災地の詳細がまだわからないので(ニュースでは
おおむね把握できますが、、。)
心配事が尽きませんが また近日中に
近況報告をしたいと思ってます。

PS 体調はやや良くなりました。
  点滴の後、腕がパンパンに腫れ、お箸が持てないくらいに。
  やっと それも治った。。。。。

2011年3月5日土曜日

MET美術館 & BORDERS














ミッド・ウィンター・リセス(真冬休み)の間、
結局 サイエンスのプロジェクトを完成させなければならず
外出もプレイデイト(遊ぶ約束)も 大して出来なかったので
腹いせ(?)に 仙一とメトロポリタンミュージアムへ
出かけてきた。

というか 私の勘違いだったことが後で判明したのだが
ポンペイの遺跡の一部が展示されているはず、と
ここのところ にわかポンペイ・ブームの私が
はりきって仙一を誘ったのだ。

行けば、ある。
勝手に確信して いざMET(美術館の略称)へ。

基本的には 入場料が20ドル。子供は12歳以下は無料。
しかし この金額は高いし あくまでも「提案」と謳っているので
誰でも 好きな金額を払って入ることが出来る。
人によっては1セントだけ、とか、1ドルだけしか
払わない、と言う人もいるけれど
それはねー やっぱりねー ちょっとねー、と
いうことで 5ドルだけ払って 入場。
(それでも5ドルかよ!って感じだけど NY在住で税金も
たっぷり払っているのだから、それで良しとして欲しい。)

さて グルグル回っても ポンペイは見当たらない。
あっれー おかしいなぁ、、、、。
館内地図にもない。

仙一曰く、それって 自然史博物館じゃない?あったの?

ウーム。
そうか、そうだったかも。

でもさー 仙ちゃんと二人でMETに来たかったんだよー。

すかさず 仙一、
えぇー、二人で来たことあるじゃん、
ゴッホの写真を僕が撮りたくて。

!!!!!!!!!!!!

そうだった!
一年前に 来ていた!
その時は地下の図書館で絵本を見まくったのだった!

お母さんは絶句だよ。
すっかり忘れていたよ。
家に帰って 父ちゃんに話したら
「前に 入場料をいくら払うか 悩んでから行ったことあったじゃん。」

そうです、そうでした。

それにしても 毎回広すぎて 全部を見ることが出来ない。
しかも 地図を見ていても 現在位置に迷い、
あちこち ウロウロした挙句、ここはどこだ???となる。
気づいたら ネパールの文化コーナーに居たりして
そこで 道草食って 目的地に辿りつけないのであった、、、。


PS METの後に寄る予定にしていた BORDERSという本屋が
  無くなっていた。破産したとかで 店舗縮小をしているのは
  知っていたけど、気に入っていた支店が あっという間に
  閉店になっていたのだ。
  かなり歩いて着いたら 無くなっていた、
  という悲しいおまけつきの一日でした。