2009年5月13日水曜日

あふれる熱い涙

清志郎の訃報から時間が止まってしまっている。
あまりのショックに言葉も出ない。
しばし 引きこもり状態で10日ほど経った。

あれこれと 思いが浮かんでは沈み
深いため息、そして ゆるんだ涙腺はなおらない。

しんどいなぁ と思うのは
ふとした瞬間に その人がもういない、という事実に
あらためてドッキリする時だ。

それでも 時間は過ぎていく。

思えば 私の人生の節々に清志郎の存在があった。
中学、高校、暗い大学時代、偏屈な高円寺時代、
勢いで住んだ国立時代。
結局 中央線に長いこと住みながら
数々のライブに出かけた。
結婚した頃に 勤め先の高円寺文庫センターで 念願のキヨシローのサイン会、
仙一が生まれて間もないころにも 2度目のサイン会、チャボのサイン会。

かもめブックスの壁にはパティ・スミスのポートレートの横に
清志郎の切抜きを貼っていた。
レジに近づいた人しかその切抜きは見えないのだけど
絵本屋に来て 清志郎が貼ってあるっていうだけで
店のファンになってくれたお客さんも かなりいた。

最後になってしまったアルバム、「夢助」が出たときに
メンフィスでの録音を記録した番組をみた。
それは ちょうど私達が家族で何かも うっちゃって
アメリカに渡る直前のこと。
スティーブ・クロッパー、、、、、オーティス・レディング。

復活の報告を聞いて
「JUMP」のプロモーションビデオに大うけ、号泣。
それは そんなに前のことじゃない。


あーあ もういいや。
書いても書いてもしょうがない。
基本的にセンチメンタリズムは性に合わない。

だけど こんなに悲しい思いをするとは、、、
知ってたけど知らなかった。

2 件のコメント:

montiti さんのコメント...

清志郎の死を知って、悲しみにくれながら、次に浮かんだのは、ああ、きっと海の向こうで、かもめさんが打ちひしがれているに違いない、ということでした。

ブログが更新されないのも、きっとあまりのショックのせいだろうと。

私にとっても、この悲しみは、中学生の時のジョンレノンの死以来のこと。
深夜に二日連続でNHKで放送された追悼番組を録画していたので、それを昨日、子どもが寝た後、一人静かに見ました。
私は、つばめさんほどのファンではなかったかもしれないけれど、それでも高校時代から今に至るまでの人生のいろんな場面や感情が、口ずさんだ歌と共に、蘇ってきて、涙が止まりませんでした。

昨日、新聞には、渋谷陽一が「ぼくの好きな先生」を例に、こんなコメントをしていました。後にも先にも、日本のロックでこれほど教師に対する肯定的な気持ちを歌った曲はないだろう。当時も今も、教師はロックにとって敵であり、否定の対象だった。しかし、清志郎はそんなことは気にしない。自分がいいと思えば歌うだけ。なぜなら、彼には肉体化されたロックの思想があり、自分の肉体が自然に発するビートや言葉が、常に正しくロックである自信があったからだ・・・と。

追悼番組の中で、清志郎が「歌うことは使命だと思っています」とか「(若者に対して)夢を持とう」と話している場面がありました。こんなこと、他の人が言ってもピンとこないけれど、彼に言われると、ストンと心に落ちるんだよね。

あの声、肉体化されたメッセージが聞けなくなるのは、本当に、本当に悲しい。

kamome さんのコメント...

>montitiさま

皮肉なことに 仙一は今年の担任を
嫌っていて「僕の好きな先生」は
夢のような先生なんだよね、彼には。

それでも この一年で世の中には理不尽なことが たくさんある、ってことを知り、それをどうにか自分で処理できるようになってきました。
忍耐と反抗を覚えた仙一に
もうひとつ覚えて欲しいこと、
それは 清志郎がいつも言っていた
「ユーモアが必要。」ということ。

ラフで、タフであれ、という
気持ちも込めてラフィー・タフィーというバンド名も付けていた彼の
ことを 徐々に仙一にも伝えていけたらいいなぁ、という今日この頃の
あたくしであります。